・本の話/0なのだった



 誰の言った言葉だっただろうか。

 ――世界には二種類の人間しかいない。
 ――すなわち、本を処分できる者と、そうでない者だ。

 そして自分は、間違いなく後者の人間なのだ。
 この二種類の人間は、互いを理解することはない。永遠にだ。
本を処分できない人間は、本とともにある自分の過去の感情を
処分できないのだ。あの本を読んだとき、自分は何を想ったか?
この本はどこで、どのような劇的な出会いで手に入れたのか?
 本を処分できない者は、それをしろといわれたときに、大切
な記憶を捨てろといわれているのだ。
 だから、俺のような人間は、本を処分することは考えもしな
い。他人に言われたときに初めて、胸のきりきりするような恐
怖感とともに、これまで読んだ本を失う可能性に気づくのだ。
 実際、今でも、小学5年の時にバザーに出したコレクション
のことを思うと、みぞおちの下のあたりを捕まれたような気分
になるものだ。
 さて、そのような、本を処分できない人間がいる。その人物
にどのような事態が降りかかるのか、おわかりだろうか。
 答は簡単。
 本が、増えるのだ!
 我が城、優雅で気ままな独身生活の居城であるはずの部屋は、
本がいたる所に侵食してきている。
 当初は食事の場として活躍していた小さな机は、増殖する書
物に占領されて久しい。だが、机の上に我が物顔で居座る本た
ちは、救いがたいことに、全て未読のものたちだ。減らしてい
こうとは思うのだ。だが、東急東横線の綱島から中目黒まで急
行で20分ほどの通勤路に、それほどページの消化能力を期待
するわけにもいかないだろう。もちろん休日は、普段の遅れを
取り戻すために読書をする。ほかに休日の使い方などあっただ
ろうか?
 いや、あった。
 古本屋は駅前に3件。勤務地も含めて5件。最近できた大き
な新古書チェーン店が一件。新書店は毎日顔を見せているが、
気分によっては2、3件。
 本を探しに歩く日なのだ、休日というものは!
 かくして、読まれた本の勢力は、未読の本たちを相手に悪戦
苦闘、じりじりとその版図を明け渡してゆく。もっとも、読書
量が増えたところで、部屋に対する本の侵攻は変わらないのだ
から、事態は変わらない。未読の本のスペースが減るだけ。
 最近では、枕元にあった読後の本の一群が、自分で組み立て
た安いパイプベッドの4半分を覆うまでになり、寝返りも打て
ない状況だ。
 それでも、石川の実家に帰れば、学生時代に集めた書物たち
が、この部屋の4倍はあるだろう。
 いつでも会えないというのは寂しいが、故郷に帰れば確実に
会える。そういった関係もなかなかに捨てがたいものだ。
 石川の自分の部屋の、どこになにがあるのか、ごく簡単に思
い浮かべることができる。初めて自分の小遣いで買った本は、
扉の右の本棚の一番上の左はじ。雪の降る日に隣町の本屋まで
自転車を走らせて買った本は机の脇の本棚の、右の可動式書架
の下から二番目。これには転んでつけた泥のしみがついている。
 こんな生活をしている身だ、本を買うのをやめる気もない。
 そんなある日、いつものように書店巡りをした。
 新古書店で続きの読みたかった本の続編(絶版だ)を見つけ、
そのまま同店の100円書コーナーに足を向けた。こういうも
のが学生時代にもあれば便利だったのだが、おそらく便利すぎ
て困った事態にもなったははずだ。
 そのコーナーに革の装丁のB4サイズの本があった。
 思わず手に取る。これが、100円?
 表紙には、自分の尾をくわえる蛇、の浮き彫り。
 裏は同じ図案の、陰影が逆になったもの。
 題名は記されていない。
 ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」に似ている。映画
の「ネバーエンディングストーリー」の原作になった本だ。
 ただしあちらは、深い赤の絹張り装丁、装飾は互いの尾をく
わえる二匹の蛇。
 さて、本を処分できない人間、余人がみれば読書行為への執
着が強すぎるのではないか――本人はごく自然なことだと感じ
ているが――と思われる人間が、目の前に興味を引き、かつ、
経済的諸問題に照らし合わせても納得のいく物件を発見したと
きに、どうするか。
 自分の経験で言うと、買わない回数は、ゼロなのだった。
 本好きがカバンの中に本を入れて帰宅するとき、その重みは
快でありこそすれ、苦痛に感じることはめったにない。自分の
部屋に帰って、家事やら食事やら、生活維持に必要な諸々のこ
とを成し遂げた後、今日の収穫物たちに向かい合った。
 まずは古書店の値段シールをはがしにかかる。すべての本を
手に取り、内容などを少し流し読みなどしつつ、期待を胸にし
まい、未読のコーナーで待機を願う。机の上の未読書たちも、
新入りが増えてさぞやうれしかろう。
 最後に、例の革の装丁の本を手に取った。実を言うと中身は
まだ知らない。日本語ではないかもしれない。
 開いてみた。しばらく読み始め、気づくと30分が経過して
いた。明日は会社なのだが、このまま読むべきか、読まざるべ
きか――。
 だが、思い悩む必要などないのだ。少し考えれば、何を優先
すべきかは明白である。思い起こせば小学校の授業中の西遊記、
中学校の試験前の番の推理小説、高校の修学旅行の前日の伝奇
ホラー、大学の入試の前の晩の古典SF、それらを前にして、
本に魅せられた自分が本を読みきらなかったことは――

 ――ゼロなのだった。

 革の装丁を手に取り直す。ページをめくり、改めて冒頭の行
から読み始める。
 それはこんな書き出しではじまっていた。


「夏も盛りを過ぎたとはいえ、照りつける日差しは……」




フィクションです。 ちなみに続きます。



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