・本の話/1つで足りけるや


 夏も盛りを過ぎたとはいえ、照りつける日差しはいまだ苛烈
さを減ぜず、野も山も道脇に生える笹もどきも、雲も空もあら
ゆる葉のたぐいも白々と色を飛ばされ、平凡たるべき風景全て
あたかも異界のごとく目にうつれり。
 薄暗く気の色の変わる夕でもなく、またあやかしの時刻なる
夜の時でもなく、階段をのぼりくだりしたどこか別の階でもあ
らね、ただ昼日中の野にこそ異界のあらわれるは不思議なる。
 余、笹もどきの脇に茂る乾いた山道を分け入り、よく乾き土
ほこりのたちたる道を踏み、ついに大井出山のすそ道に至る。
ほどよき木陰に座し、しばらくは休まんとて筒より水を飲む。
 来し方を遙望するに、陰よりみる山河はすべて石も葉も尋常
に見え、さきほどの異界の趣はどこへか消ゆる。やや起伏のつ
くのに茂みと樹木と点在し、なかに赤なめくじの這いあとがご
とく白く野道のうねるあり。野道のゆき消える方、丘ひとつふ
たつはさみて里の広がるやあらん。じかには見えねども、学校
のそこより高空へ立ち上りたるをもってそれと知れり。
 昨晩はこころの踊りてあまり眠れず、ひと息をついた今にな
り眠気の強くなれり。昨日、親の使いにて酒宿へものを取りに
ゆき、かの土間で旅装束の隻眼の翁と出会えり。翁、本を多く
持ちたる。余、里の本は全て読み、院の蔵にある本はいくつか
そらんじる。使いを終わらせ、また酒宿にゆけども、翁、すで
に発てり。酒宿のあるじ、かの翁、大井出山に住めりと言う。
 余、日の明くるを待ちて出立す。
 木陰にていくらかうつらうつらとしたか、気がつくとどこぞ
より人の声の何事か唱えるものの聞こえたり。

 ごうじんうじょう すいほうふじょう 
 こじゅくじんてん どうしょうぶっか

 ややして、角猪の肩にかつぎし狩人の茂みよりいでる。狩人、
ひげ面をゆらして言う。「わっぱ、わっぱ、迷えるか。」余、
否と答えるに、狩人、「山は日が暮れると鬼の出る。里へ連れ
帰らん。」とて、余、否と言う。逆にさきほどの声を聞ける。
狩人、「血祭りなり。角猪のみたまを山の神に返せり。」と。
余、翁の居を訪ねるも、狩人、存ぜぬと言う。狩人、別れに、
竹籠と桃とを余に授く。余、礼を言い、今しばらく休まんとて、
桃を一つ食いて寝る。
 起きると、すでに日は落ち、辺りは暗くなれり。
 鬼、牙の生えたる大口を開け、余を見れり。
「人は食ったが、わらしはまた美味なり。」とて、鬼、余に手
を伸ばせり。余、「ものの食べ過ぐるは腹を壊すと聞けり。」
とて言う。鬼、「左様なる。」とて考えるも、「いや食う。」
とてまた手を伸ばせり。余、「大人とわらしとまざると、味の
悪くなれり。水で流すべし。」とて、筒を渡す。鬼、水をごう
ごうと飲める、そのあいだに、余、うち走りて逃ぐる。ややし
て、後ろを見るに、鬼、「待て待て。」とて追い来る。余、狩
人より貰いし桃を投げれり。鬼、桃を拾いて食う。余、再び逃
ぐる。ややして、後ろを見るに、鬼、「待て待て。」とて追い
来る。余、竹籠を投げれり。鬼、竹籠の籠目の数を数えたるに、
余、みたび逃ぐる。ややして、木小屋の窓の光りたるあり、余、
中にうち入る。
 隻眼の翁の、本に囲まれて居るを見れり。
 翁、「わらし、何用なる。」とて本を文机に置けり。余、本
をただ読みたしと言う。翁、「本に惹かるるか。」と言う。余、
首を肯す。「翁、いずこより来る。」とて尋ねるに、翁、「こ
こより上の階に里はあらず。」とて答える。
 そのとき、何者かの戸口を強くたたけるあり。余、「鬼。」
とて翁に言いたるを、翁、「枯れた翁しか居ぬ。」と、戸口に
言う。鬼、外より「わらしの居る。」とて戸をたたく。翁、余
に向き、「本を真に読みたくば鬼をどこへか払う。わらし、本
を読みたしや示せ。」と言う。
 余、「一つで足りけるや。」とて右の目をえぐり、翁に渡す。
 翁、「足りける。」とて、余が右の目を持ちて戸口に向かう。
余、右の眼窩を押さえつ、翁の読みさしたる本を、気を失した
る前に左の目で覗く。かくのごとく書けり。


「一部人間の私欲専横に端を発したこの動乱は、いまだ……」





文語調でメルヒェンです。 古文の文法チェック機構がある人は凍結しておいてください。 おそらく泉鏡花と宮沢賢治が入っているはずですが、 ちゃんと読んだことがないので本人も確かではないです。 なんだか変な用語ありますが、そのうちわかるかもしれないです。



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