・本の話/3時間ほどしてから迎え人が到着した      
 
  
 25階の海の世界を最初に見たとき、飛人は8歳の男の子だ
ったが、そこは彼が想像していたような広くて明るい所ではな
かった。
 その日の25階は、台風だったのだ。
 25階の校舎の中の窓越しに荒れ狂う灰色の空と海と大雨を
見ていた飛人は、すぐに階段委員会見つかってしまい、彼を探
していた両親の前へ連れて行かれた。
 飛人の母は、大事が無くてよかったと言ってから、こっぴど
く飛人を叱った。父はその間黙っていたが、最後に「好奇心が
先に立つのはうちの家系かねえ」と漏らして、母の小言の矛先
を自分に向けさせてしまったものだった。

             #3

 それから、4年が経った。
 飛人は12歳の少年になり、小学級の卒業を控えた12月の
冬休み、初めて25階の海の世界へ降り立つことを両親に許さ
れた。題目は、父、榎木善也の学術調査の手伝いである。だが、
実際はただの旅行と言ってよかった。
 ティーンズに住む12歳の少年にとって、25階に行けると
いうことはちょっとした事件だった。飛人は、クラスメイトが
海の話をするたびに、その暑くて眩しくて広い世界に思いを馳
せたものだった。しかし、25階に行ったどの子供も、台風に
は出くわしてはいなかったので、飛人は自分が偶然台風を見た
ことを内心誇らしく思うのだった。
 そして、4年ぶりに25階へ来た飛人は、父と共に階段委員
に旅券を見せ、非常扉を抜け、常夏の世界へと降り立った。
 まずは光だった。それまで校舎の窓からも外は見えていたの
だが、外に出るととてつもなく強い光が飛人の目を襲った。他
の太陽のある階に行ったことはあるとはいえ、ティーンズ育ち
の少年にとって、25階の太陽は眩しすぎるのだ。海の反射光
でさえ強すぎるのだ。白い雲がちらほらと浮かぶ空の、突き抜
ける青さを確認できるまでには、しばらくかかった。
「太陽を直接見ると目をやられるぞ」
 善也が飛人に言った。飛人は言うまでもなく目を細めて、2
5階の暑い空気が、風が吹くと意外なほど涼しいことなどを発
見していた。
「もうそろそろ迎えが来るはずだが、25階で暮らすと時間に
ルーズになるからな。ちょっと待つかもしれない」
 そう言って善也は飛人の頭につば広の麦わら帽子をかぶせ、
非常口のすぐ外の待ち合わせ広場に腰を下ろした。
 飛人も見慣れない木の根本に腰を下ろし、帽子と木陰のおか
げで落ち着いてきた視力で、海の世界を観察することにした。
 学校が建っている中央島の周りには、青緑色に澄んだ海がど
こまでも広がる。所々に中央島ほどではないが島があり、校舎
の建つ高台から、白い砂の続く浜辺越しにもいくつか見て取る
ことができる。
 それにしても、この25階と言うところは――
 ――なんだろう、と飛人は思った。
 新しくて個性的な世界を初めて見たときは、人は感動して、
何か胸の内に思いがふつふつとわき上がるのではないか、と飛
人は思っていたのだ。本でも動画でも、友人の体験談でもそう
いうことになっているはずだった。しかし、眩しい海の世界を
目の当たりにして、実際にその砂の上に座っている身としては、
特に言葉などは出ないのだ。
 飛人は、感動というものは言えないものなのじゃないか、と
海の波に反射する光を見ながら思った。

 3時間ほどしてから迎え人が到着した。
 よく日焼けした壮年の男と、飛人と同じぐらいの年頃の、こ
れまたよく日焼けした少女の二人連れだった。

             #3

 男は真名瀬と言い、善也の学生時代からの友人で、少し離れ
た島に娘と二人で住んでいるとのことだった。海洋学者であり、
物理学者であり、地理学者でもあり、博物学者やそのたいろい
ろでもあった。とはいえ、善也にしてもそれは同じ。
 文明の創生期においては、学者に専門分野というものはない。
世界の謎を解き明かすという点において、学者全員が自然科学
者であり人文科学者なのだ。
 大人二人は調査のことや最新の学説のことなどで話し合った
り、実際に現地へカヌーを漕いだり、時にはただ海に浮かんで
無為に日を暮らしたりなどして、過ごしていった。
 その間、少年と少女はどうしていたかというと、一緒にカヌ
ーを漕いだり、時には親について近くの島へ遊び半分の探検に
行くのだった。

 そうして一週間ほどが過ぎた。
 飛人はカヌーの練習を毎日欠かさずしていたので、その日も
小屋の近くの浜からカヌーを出して、疲れるまで漕いでは休み、
休んではまたカヌーを漕いでいた。
 25階に来て二日目に、全然進まないと言って、真名瀬の娘
の帆奈に笑われたのだ。翌日は腕が痛くてカヌーは漕げなかっ
た。それで、飛人はカヌーに入れ込むようになったのだ。
 何度か、善也の遠出につき合うときに漕がせてもらったこと
もあった。だが、結局すぐにばててしまい、父の体力にそのつ
ど感嘆するのだ。12歳の少年にとって、大人は自分がいつか
到達するなどとは思わない、別な存在に思えた。
 そんなことを思いながら飛人が疲れてカヌーの上で寝転がっ
ていると、50mほど離れた岸で帆奈が呼ぶ声が聞こえた。
「飛人ー! お昼ー!」
 飛人はカヌーを岸に走らせた。一本の櫂の両端で左右に漕ぐ。
自分の力が重い水を押しやり、そのまま推力になるというのは、
なかなか悪くない感触だ。
 で、岸に着いて早々、帆奈に怒鳴られた。
「聞こえたなら返事くらいしなさいよ!」
 帆奈は最初からこの調子だったのだ。
 初対面の時に、お互い転校歴35年生まれの12歳であるこ
とを親同士の会話で確認したが、飛人としてはあまり会話が弾
むとは思っていなかったのだ。12歳といえばちょうど第二次
性徴の頃で、小学級でも意識しあった異性同士が反発しはじめ、
仲がよかった子でも会話が少なくなる――という、非常に微妙
なお年頃だったのだ。
 しかし、25階の小学級で育った帆奈には、そういった飛人
の側の常識は通用しなかった。挨拶の声がよく聞こえないとい
って、初対面から大きな声で怒り始めたのだ。
 この時期の少女は男子よりも成長が早い。よく日焼けして動
作が猫みたいに快活な上に、飛人よりわずかに背が高い少女に、
ティーンズ育ちの生っ白い少年がかなうはずはなかった。
 とはいえ、怒るのもすぐなら、それが消えるのも早かった。
飛人はそのあたりもティーンズの子供、少なくとも自分と帆奈
は違うのだなあと思う。
「遠かっただろ。ティーンズ育ちは大きな声を出すのに慣れて
ないんだよ。狭いからさ。帆奈だってあそこで育てばでけえ声
出せなくなるぜー」
 と、飛人はまた小言を言われそうな反応をする。
 飛人自身、こんな口調が同世代の女の子に聞けるとはつい一
週間前までは思わなかった。だが、直に感情を出して話してく
る相手に向かってよそよそしい態度をとり続けることは、非常
に難しい。
 そんな自分を感じながら、階が変われば人間もすぐに変わっ
てしまうのかなあ、と飛人は思うのだった。
(空があるからかもしれない。ていうかティーンズに帰ったら
すぐにいつものおれに戻るんだろうな)
「……あ」
 帆奈がカヌーを引き上げる手伝いをしながら声を出した。
「明日、台風が来そう」
「……わかるの?」
「なんとなく。ここで暮らしてればだいたいわかるよ」
 へえ、と飛人は相づちを打った。
「どうやってわかる? 何かしるしとか出てんの?」
「別に……。ほんと、なんとなく。自分でもわからないけど」
 敷き木を使ってカヌーを波の来ないところまで押し、真名瀬
の小屋まで向かいながら飛人は言った。
「なんだそりゃー、アテになんねえな」
「ホントだって! 明日になればわかるよ。台風、すごいんだ
よ。もう雨がザーザー降ってね、風がビュービュー吹いて」
「知ってるよ。おれ、一回見たことある」
「あれ、25階は初めてじゃなかった?」
「小さい頃、窓越しにね」
「ふうん。じゃあ海とかよく見えなかったでしょ。海の上にい
たら死んじゃうよ。バケモノに食べられちゃうよ」
「それぐらい知ってるよ……。ていうかさ、ホントに台風来る
の? 全然いつもとおんなじじゃん。風も普通だし」
「だから、明日になればわかるって。賭けてもいいよ」
 小屋に帰ると、真名瀬も同じことを言った。
 いつもと全く変わらない(ように飛人には見える)空と海を
見ながら、飛人は半信半疑のまま午後を過ごした。

             #3

 翌日、台風が25階を直撃した。
 飛人は小屋の窓から荒れ狂う海上を見た。近くで見たいとい
う好奇心を押さえるのは簡単なことだった。


                     …………後編に続く。
 
 
 
なんと前編です。話が長くなりすぎてしまった。 さて、実は、本の話は毎回なんらかの実験をしてるんですね。 今回は何かというと、背景をつけたとかそんなんではなく、 揺れる思春期の少年少女を初めて描写したと言うことですよ! これは大実験だ。いや、もはや冒険だ(自分的に)。 あっ、揺れる思春期の描写に第二次性徴とかいう単語が登場 するかーッこのトンチキがァーッ!とか僕のゴーストが囁く。 これは参った。  
 


     
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